幽霊を一度でも見てしまったら、生きていられない。
そんなものがほんとうにいると分かってしまったら、もうトイレの扉は開けられないし、風呂場で頭を洗うのもできないだろう。普通に生活なんかできない。
確実に発狂する。そう思っていた。
アパートの退去期限が迫っていたので、俺は夜中まで作業をしていた。電気はもう止めていたので、部屋のなかは真っ暗だった。
あと残っている家具はベッドとテレビと絨毯、カーテンのみになった。掃除はまだだが、なんとか作業完了の目処は立った。
今度住む所は近場だったので、荷物はすべて手で運んだ。何十往復したか分からない。
時計を見ると午前3時。朝から20時間、休みなしだったので腰が痛い。
脹脛は震える有様。さすがに限界で、俺はベッドに腰掛け、煙草に火を点けた。
3本立て続けに吸って、しばらくぼうっとしていた。そのとき、庭のほうで足音がした。
ザクッ、ザクッ、ザクッ、と割と早足。庭を夜に歩く一階の住人なんかいない。
また、外部の人間が裏手の庭に入るには、柵を乗り越えてこない限り、不可能だった。一瞬、思い浮かんだのが、包丁を持った泥棒の姿。
違うとしても、まともな人間ではない。足音が俺の部屋の前まで来たけど、カーテンが引いてあるので見えない。
(鍵、かけてたっけ…)ちょっと焦ってドアに手をやったとき。ドンドンドンドンドンドン!ドンドンドンドンドンドンドンドン!夜中にも拘らず、物凄い勢いでドアを叩かれた。
そして、「※※※あけてくださーい。※※※あけてくださーい」という声。
幼い、といってもいいくらいの女の子の声。※※※――ガラス?ハヤク?声は大きかったんだけど、よく聞き取れなかった。
ちょっとこれやばい!頬から、首筋、全身へと鳥肌が広がった。霊だとしたら、入れちゃいけないんだっけ?慌ててカーテン越しにドアを押さえようとしたとき、15センチほど開いてしまっているのに気づいた。
(カーテンは5センチくらい寸足らずだから、下の方がちょっと見える)(でていけ!でていけ!でていけ!)そう念じて両手でドアを閉め、カーテンの上から押さえつけた。「でていけ!」って声に出して叫ばなかったのは、近所迷惑だと思ってたから。
パニクってるようでも、意外と人間って冷静な部分残ってるもんだね。それからあと2回、ドアを開けられた。
凄い力。どう考えても幼女の腕力じゃない。
こっちは勢いをつけないと閉められなかった。しかもドアはずっと叩かれっぱなし。
つまり、向こうは片手なのに?ここでわずかに頭の片隅にあった、「生きてる幼女説」が、完全に消えた。ドンドンドンドンドンドン!ドンドンドンドンドンドンドンドン!「※※※あけてくださーい。
※※※あけてくださーい」(でていけ!でていけ!でていけ!)5分くらいドアを挟んで攻防が続いた。ずーっと鳥肌消えないまんまなのが怖かった。
カーテンには、まえに飼ってた猫が引き裂いた部分があって、そこから少しだけ相手が見えた。髪の位置からすると、身長は1メートルあるかないか。
淡い暖色系の上着。暗かったから自信ないけど、そう見えた。
その姿が消え、ドアにかかる力がなくなってからも、俺は全力で押さえ続けた。去っていく足音が聞こえなかったから。
午前3時40分。俺の部屋の斜め上に住んでる人が、トイレに起きたらしい。
他に起きてる人が近くにいる!その考えで呪縛が解けて、俺はダッシュで部屋を出た。もう手は震えてるし、膝は発砲スチロールになったみたいにふわふわ、ごわごわだった。
その日は引越し先の部屋で、電気を点けたままで寝た。んで、今の感想はというと、凄いことがあったなあ、くらいのもの。
風呂にもトイレにも入れるし、普通に生活できている。