おれは就職のため東京に引っ越した。
なかなか部屋はなかったけど、最後に不動産屋が渋々紹介してくれた部屋でさ。北向きでも新しい物件で5万円、1LSDKって間取りの、広めの部屋。
場所も○天宮の脇で、もろ都心。「都心もそれ程家賃高くないな。
掘り出し物かな。」程度に思った。
気がついたのは、異変が起こってからだったよ。この部屋は洗濯機等の家具付きだった。
あとテレビデオ(死語)、冷暖房、電気(照明)。あと、珍しいものでは、収納室(SDKのS)に、赤い自転車を置いてくれてた。
丈夫な造りの建物だし、ほんと満足だった。しかし、最初の晩からブキミなことが起こったんだ。
夜、風呂に入っていたら、部屋の方から、何か聞こえてきた。「ズル・・ズズズ・・・」と、ひきずる様な、低い声の女性の喉が詰まったような音が。
俺は驚いて、「えっ!??」って声を出した。同時に音がやんだ。
気のせいと思ったけど、ひとりで風呂に入ってるのが怖くなった。出た時、異変に気づいた。
ひっそりと静まり返るおれの部屋。リビングの電気もついていない。
比較的強気な俺だけど、びびった。「電気はつけてたはずなのに。
。。
」おれは、混乱した。脱衣所から外に出るのが怖かった。
幽霊なんて信じちゃいない。でも、脱衣所の外に広がる暗闇・静寂はどう考えてもまともじゃない。
気を静めるため、とにかく体を拭いた。でも湿気がとれない。
冷や汗が止まらなかったんだ。服を着た。
何か護身用にと、姉がくれたドライヤーと、ヘアスプレーを持った。とにかく怖くて、歯がガチガチ震えるんだよ。
脱衣所の扉をゆっくりと開くと、そこには、何も見えない暗闇が広がってた。街灯の多い通りに面してるのがおかしい位、何も見えない。
ごくり。おれが生唾を飲む音が、いやにそらぞらしく、耳に響いた。
「ズズズ・・・」突然、あの音が、うつろな闇の奥から湧き上がってきた!!おれは急いで電気をつけようとした。でも、スイッチを押してもつかない!「ズズズズ!!」音がいきなり大きくなった。
近づいてくる!暗闇の中、おれは咄嗟に、夜中だってことも忘れて「ぎゃぁ」っと叫び、脱衣所に逃げ込んだね。そのまま脱衣所の扉を固く握り、朝が来るのを祈ったよ。
おれの祈りは、通じなかった。「ズル・ズル・・ズズズ・・!!」おれの握ったドアノブが、いきなりグイグイと下げられた!おれは力の限り、抵抗した。
必死で腕に力を込めた。「やめろぉ!」叫び声が家中に響いた。
それでもドアノブはグイグイと腕を押し下げてきた。もうだめだと思った。
今度は、扉が引っ張られた。俺の腕は、素早く、扉を引き寄せた。
無我夢中だった。「やめてくれぇ!!」届くはずのない願いを、俺は連呼した。
その刹那。「ドン!ドン!ドン」おれの心臓は、ドクッと大きく動いた。
玄関の扉をたたく音だ。「こんな時間に、何を騒いでるんですか!!」玄関だ。
脱衣所の扉じゃない。「助けてくれ!」俺は叫ぼうとした。
そのとき、俺の押さえる扉から、すっと圧力が抜けた。ほっとした次の瞬間「ドカン!!」俺の心臓は冷たくなった。
扉に何かが突進し、ついで、それがつぶれた気配があった。「助けてください!!」俺は、力の限り叫んだ。
たすけに来てくれたのは、下の階の夫婦だった。その二人によると、まえの住人も夜中に騒ぐことがあったので、何度か注意をしていたんだそうだ。
部屋の外で、おれは部屋の電気がつかないこと、部屋のなかで起こったことを話した。夫婦は、意外にも、俺の頭がおかしいとは思わない様子で、黙って話を聞いてくれた。
そして、二人は「夜中だから、今日は私たちの家に泊まって、明日電気屋を呼ぼうね。分かった?」って言ってくれた。
涙があふれた。東京なんて、高いビルばかりの冷たい街だと思ってた。
でも、夫婦は本当に優しい人たちだった。その夜は、夫婦の家に泊まった・・・・「またこの物件かぁ。
」翌朝、管理人と電気屋が溜息混じりに言った。「この物件ね、よく停電するんだよ。
しかも、何でもないのに、電気がつながらなくなっちゃうんだよね。」とにかく、俺は鍵を開け、部屋の扉をそっと開いた。
すぐに、異常な物が目に映った。脱衣所の扉に、べったりと、赤い液体がこびりついていた。
あまりの恐ろしさに、俺は、気が動転し、息ができなくなった。「またかぁ。
」扉を拭きながら、管理人が、ひとりごちた。「いまさらで悪いんですけどね。
」ばつが悪そうに管理人が続ける。「前にも、何度か同じようなことがあったんですよ。
ここは元々、建売のマンションだったんですけどね、なぜかこの部屋だけは、持主の意向で賃貸にしたんですよ。日当たりも悪いんですけど、この部屋は、異様に暗くて、買手がつかなかった。
持主は、設計上瑕疵があるに違いないので、とても人様には売れない、この瑕疵の分、割安価格で、賃貸にしようって言いました。私は管理を担うだけだから、従いました。
」管理人は言葉をとめた。平静を保つためか、タバコをすった。
しばらくすると管理人は「私を責めないでくださいね。」ポツリと呟いた。
「最初の住人。。
責任は彼らにあるんですから。」そこで、管理人は口を閉ざした。
自分の部屋が怖い。この事実に、俺は耐えられなかったが、自分の荷物が全部この部屋にあることがそれ以上に恐ろしかった。
「勝手で申し訳ないですが、引っ越してください。」管理人が手を床につき言葉を繋げた。
「引越しに必要な費用は、こちらに負担させてください。」俺は本当に救われた。
昨晩のことで破けてしまった心が、再びつながった気がした。すぐに、不動産屋に連絡した。
持主にも。両者とも、素直に納得し、解約の申し出はこの電話のみで良いといってくれた。
引越屋の手配も請負ってくれた。幸い、引越し初晩で、荷物の大半は開いてはいなかった。
片付けはあまりないけれど、俺の精神状態を酷く心配した夫婦が、手伝ってくれた。片付けも終わり、いよいよ引越屋を待つだけ、となった時だった。
旦那さんが、余計なものを見つけた。「このビデオテープは君の?」しーんと静まった部屋で一同はおれを見つめた。
テープを手に取った。頭が真っ白だった。
何分たったのだろうか。おれは、うっかり、余計なことを言った。
「違います。でも、見てみたい。
」ごくり、と、皆が息をのんだ。怖かった。
でも、おれは知りたかった。責任者とはどんな連中か。
あれは何だったのか。おれは、自己の責任において、ビデオを見ることを決めた。
管理人も、夫婦も、真相を知りたい気持ちは同じだった。きっとこのビデオには何か手掛りとなる事実が映っている、と、誰もが直感した。
その時、突然、おれのPHSが鳴った。引越屋だ。
あと1時間位で到着するそうだ。良いタイミングだった。
十分な時間が与えられた。テープは、この部屋を撮ったものだった。
そこには、一家三人。きゃっきゃとハシャグ2歳くらいの赤子。
優しそうな男性(父親)と美人だが陰鬱な顔の女性(母親)が写っていた。映像が切り替わる。
うるさかった部屋には、今度は誰も写っていない。画面の左り端には、黒い影が映っている。
撮影者の指のようだ。ただ、何だかゴトゴトと音がしている。
しばらくじぃっと画面を見つめていた。まわりは、すっかり夕暮れになっていた。
「イヤァ!!」急に、かぼそい悲鳴が響いた。一緒に見ていた奥さんだ。
目を閉じて、すっかり脅えながら、画面を指差して言った。「せ、せ、洗濯機のなか。
。。
」おれは息をとめた。ゴトゴトいう音は洗濯機だ。
そして、よく見ると、何か見え隠れしてる。小さな赤く染まった手だった。
内部に入ってる物は容易に想像できた。あの子だ。
楽しそうに遊ぶ姿が印象的だった、あの赤子だ。誰もが固唾を呑んで見ていると、急に画像が乱れた。
ざぁーと、波が入った。しばらくすると、うつろな部屋が再び写された。
皆、動けない。話せない。
おれは、背筋が凍りついた。洗濯機から赤い血糊が部屋の中へ、べったりといっぽんの帯となって続いている。
そしてその先には、ズ・ズズッと這うようにうごめく赤い塊があった。ぐちゃぐちゃで、顔も手も、足も分からない。
だが、一つ、異様に目に付くものがあった。大きく、異様に歪んだ口だった。
口の中には、ぎょろりと、こちらをじっと睨む瞳。血の滲んだ目だ。
誰も声を出せなかった。沈黙の後、だまっていた管理人が泣崩れた。
「こんなことが。」赤い塊は「・・ね」とつぶやき、洗濯機の中へと這い戻った。
次の瞬間、画像が上下した。床に落ちたのだ。
続いて、画面に飛び込んだのは、意識を失って倒れた撮影者だった。陰鬱な顔をした美しい女性。
ただ、美しさはもはや損なわれてしまった。真っ赤に染まったうつろな顔。
その鮮血は、崩れた左の眼孔から絶え間なく流れでていた。おれは、その夜、部屋を出た。
ホテルにつくと喩え様のない悲しみがこみ上げた。翌朝○天宮様へいった。
彼らの冥福を祈るために。