“クロちゃん”という呼び名の、某ゲーム会社で働いている男がいる。
ある連休の初日に、クロちゃんはひさしぶりに遊び仲間と飲み会をやって、べろんべろんになってしまった。クロちゃんの実家は郊外にあるI市だ。
方向がいっしょの仲間の車に便乗して、国道の適当な場所で降ろしてもらった。二キロメートルほど歩かなくてはいけないが、終電なんてとっくの昔に出てしまっているし、タクシーもめったにつかまらない時間なのだから、これはどうしようもない。
「ほんなら、気ィつけてな」「ん。また近いうちになー」で、クロちゃん小さくなってゆく仲間の車のテールランプに手を振ってから、脇道に入ってゆっくりと歩き始めた。
郊外都市といっても、このあたりは古い街道町のおもかげが残っていて、うらさびしい。まして深夜なのだからなおさらである。
道の両側の、こちらに倒れかかってきそうな圧迫感を感じる木造家屋の窓は、黒々とした闇を内側に閉じ込めていて、ひっそり閑としている。まるで穴蔵だ。
カタカタカタ、カタカタ----。その腐った格子のついた窓が、いっせいにかすかな音を立てた。
風のいたずらであるらしい。(はじめて通る道だけど・・・え~と、まちがっちゃいないよな)よく知っている町であるはずなのに、なんとなく違和感をおぼえたクロちゃんは、アルコール分120%の頭のかたすみで、そんなことを考えていた。
めったに散髪しない髪の毛が、さやさやと風に動いて首筋にあたるのが気持ち悪い。心なしか、風がなまぐさい。
(橋は渡ったかな?渡ったはずだよな?渡らなかったかな?)そんなときだった。キ-----ッ、きききききききききッ。
静まり返った闇をやぶって、夜の町に甲高い音が響いた。獣の鳴き声にも、鳥の声にも似ていた。
だが、どうやら人間の奇声であるらしい。ガラスの表面を針の先でひっかくような、神経を逆なでする奇声だ。
ひどくいやらしい、笑い声にも思えた。(-----? なんなわけ?)頭の後ろのほうにちりちりしたものを感じながら、反射的にクロちゃんはあたりを見回した。
誰もいない。何もない。
奇声はあれ一回きりのようだった。頭の中で尾を引いていた奇声も、すぐに現実味を欠いていった。
ほんとうに奇声が響いたのかどうか、わからなくなってしまったクロちゃんだった。(気のせいじゃないよな。
人間の声だったよなあ。鳥とかじゃなくてさあ)自分自身にたずねながら、闇の向こうをすかして見ていたクロちゃんの耳に、やがてまた伝わってくるものがあった。
といっても、二回目の奇声じゃない。(これは---)足音のようだ。
道の彼方から、こちらに近づいてくる。こちらに向かってくるようだ。
が、それにしてもなんだか濡れているような、ねばっこい足音なのだ。ぺたっ。
ぺたっ。ぺたっ。
ぺたっ。闇の中に、人影がにじみ出た。
自分のように終電に乗りそこねて、深夜の家路を急ぐ通行人だろうか。まさか、さっきの奇声を発した本人とは思えないが。
(もしも、そうだったら・・・ヤバイな)それにしても、ずいぶん小さな影だ。背が低い。
極端に低すぎる。「-----」子供だった。
五、六歳だろうか。髪をおかっぱに切りそろえた男の子である。
それが、小走りにこちらに向かって駈けてくる。ぺたっ、ぺたっ、と足音をしきりにたてて。
こんな時間に子供がどうして外をうろついているのか。いや、そんなことよりも近づくにつれて、もっと異常なことが見て取れた。
丸裸なのだ。何も体にまとっていなかった。
そして全身は濡れているらしく、ぬらぬらと光っているのが、闇の中でなぜかはっきりと見てとれたのである。あれは、水で濡れているのだろうか?気のせいか赤い色がちらちらする。
煮凝りの汁のように、ねっとりした---。ぺたっ。
ぺたっ。びちゃっ。
ぺたっ。クロちゃんは、酔いが急速にさめていくのを感じた。
常識はずれた性格だと日頃自分でも思っていたはずなのに、こんな場合どうしていいかわからなかった。道を引き返して、あの子供をやりすごすべきだろうか。
それとも反対に子供をつかまえて、事情を確かめるべきなのか。しかし、つかまえるといっても、あれはほんとうに子供なのだろうか。
・・・人間なのだろうか?ぺたっ。びちゃっ。
ぺたっ。びちゃっ。
ぺたっ。ぐちゃっ。
そんなことを考えたのは、あっという間である。すぐに子供は、クロちゃんのそばまでやってきた。
子供は、にこにこと笑っていた。何かが、べっとりとついているらしいその顔で笑っていた。
ただしそれは、クロちゃんに笑いかけているのではなくて、虚空をただじっと見つめながら笑っているのであった。そうして、その子は両手に何かを握っていた。
よくわからなかったけれど、クロちゃんの目にはそれが、おそろしいほどたくさんの髪の毛に見えた。水垢みたいなものがこびりついている髪の毛。
それが小さな握りこぶしの間から房になって垂れて、揺れていた。バサバサと・・・。
裸んぼの子供は、クロちゃんとすれちがうと、国道のほうに駈けていった。びちゃっ、びちゃっ、べちゃっ、ぐちゃっ・・・・。
今や“ぺたっ、ぺたっ”ではなく“べちゃっ、びちゃっ”と、何か汚らしい汁をまきちらしているような粘液質の足音は、しだいに遠ざかっていった。あとには道の真ん中に、完全に酔いのさめてしまったクロちゃんだけがぽつんととり 残された。
「何だったのかって?あのガキが?・・・・なんなんだろうなあ。今でもあの、びちゃっ、びちゃっ、っていう気色の悪い音が、耳にこびりついてたまんないよ。
あんなのにまた夜中にばったり会うくらいだったら、簀巻きにされて川ン中に放りこまれる方がなんぼかマシだよなあ」人を食ったコメントも、また彼らしいものである。