私は学生の頃、ある町のハンバーガーショップで「メンテ」のバイトをしていた。
メンテ=メンテナンスマン。閉店後の店内を翌朝までに掃除する仕事だ私とKさんの2人でメンテに入った時のこと。
4時頃には一通りの掃除を終え、仮眠をとるために2階の客席へ上がった。照明を消し、ベンチの上に横たわってウトウトしていると、Kさんに肩を叩かれた。
「1階の方で物音がする。」と言う。
階段の所へ行って耳を澄ますと、厨房で回している洗濯機の音に混ざって、かすかに声のようなものが聞こえた。階段を下りて、恐る恐る厨房の方を覗くと、洗濯機の前に人影が立っているのが見えた。
ジーンズにTシャツ姿の若い女。洗濯機の中を覗き込んで何事か呟いている。
「オイ!」私が声をかけると、女は振り向いてこっちを見た。昼勤のバイトをしているN美だった。
活発な感じの子で、メンテ仲間にも人気がある。今は、心なしか顔色が青白く、虚ろな表情。
十秒くらい(?)無言でこっちを見ていたが、おもむろに踵を返し、私たちのいる所からは死角になっている厨房の奥に向かって、小走りに消えた。2人揃って後を追い、角を曲がって奥の方を覗く。
誰もいない。厨房のその一角には冷蔵庫とシンクが置いてあるくらいで、人が隠れるスペースも、他へ通じるドアも無い。
一応冷蔵庫を開けたが、中は食材が一杯に詰まっているばかり。私とKさんは、しばらく呆然として立ち尽くしていた。
「あれ、N美だったよな・・・」Kさんの声は震えていた。「幽霊ですかね。
」「んな訳ねーだろ。N美生きてるじゃねーか。
」「いや、たった今、死んだとか・・・」「ば、バカ言ってんじゃねぇよ・・・」もう仮眠どころではなく、2人とも、いつになく丁寧に掃除しながら朝を待った。作業日誌にN美のことは書かなかった。
絶対本気にされないだろうと思ったからだ。家に帰って昼まで寝て、午後の講義を受けた。
帰り道、遠回りをして店の前を通った。カウンターの向こうでキビキビ働いているN美を見て、私は少し安心した。
次のメンテは友達のYと一緒だった。仕事に入る前、事務所で前回に見た出来事について話すと、Yの顔色が変わった。
聞いてみると、先週のメンテで一緒になった奴がN美を見たのだと言う。「俺が2階で掃除してたら、そいつがパニクって上がってきてさ。
開いた冷蔵庫の扉の前で、N美が立って中を覗き込んでいたんだって。」そいつが声をかけると、N美は冷蔵庫の中に消えた。
もちろん冷蔵庫の中に人が隠れるスペースなど無い。「あれなんじゃねーの、生き霊ってヤツ。
」私が茶化すようにそう言うと、「でも、生き霊って恨み持ってる奴のアレだろ?N美そんな感じじゃないよな。」と言い返された。
確かに、N美はサバサバした感じの子で、誰かを恨んだりするタイプには見えない。「夜中、店に忍び込んだんじゃねーの?」「何で?何のために?金は事務所に持ってっちまうし、理由ないって。
」「うーん夢遊病とか・・・」「どうやって店に入るんだよ。それに、消えたってのはどう説明するんだ?」結局、何の結論も出ないまま、店の営業が終わって時間切れとなった。
その日の仕事は、私が2階、Yが1階という風に分担してやる事にした。客席の床を拭いている最中に、下から声がした。
手を止めて耳を澄ましていると、今度は叫び声が聞こえてきた。Yの声だった。
私は慌てて階段を下りた。カウンターの向こう、階段の裏側にある倉庫の前。
Yが床にへたり込んでいた。目を閉じて何事か呟いている。
「大丈夫か?!何があった!」Yは目を開けると、怯え切った表情で「上へ連れてってくれ・・」とだけ言った。20分程経って、ようやく落ち着きを取り戻したYは、さっき見た一部始終を語り始めた。
Yは床の掃除をするため、掃除機を出そうと倉庫の扉を開けた。中にN美が居た。
青白い顔、虚ろな表情。驚いて後ずさったYの目の前を通り過ぎ、N美はまたもや奥の方へ消えた。
それで、Yは腰を抜かしたのだと言う。「やばいよ、やばいって。
明日店長に言ってみようぜ。」私は本気でビビっていた。
Yは俯いたまま黙りこくっていた。帰る際になって、Yが私を捕まえて言った。
「昨日の事、俺が店長に話しとくから、お前は先に帰ってくれ。」「だけど、俺の話もあるし・・・」「いや、それも俺が話とく。
いいから、まかせてくれよ。」Yの、いつになく強い口調に気圧されて、私はそのまま帰ることにした。
次のバイトを探そう、と真剣に考えはじめた。次のメンテに入った日、N美が何の連絡もなく無断欠勤していた。
今まで無かった事なので、心配した店長がN美の所に電話したが、誰も出ないらしい。私は内心メチャクチャ怯えながら掃除をしたが、その夜は何も変な事は起きなかった。
翌日の夜、早めに寝ようとしたところで電話がかかってきた。Yからだった。
「ちょっと話がある。そっち行っていいか?」声が妙に沈んでいたので何事かと思ったが、20分後に現れたYは、案外普通に見えた。
「どうしたんだ?」「いや、N美のことなんだけど・・」「昨日、いきなり休んだらしいな。」「知ってる。
電話しても出ない。アパートにも居ないんだ。
」「アパートにって、お前・・・」「うん、ちょっと前から俺、N美とつき合ってたんだ。」そう言って、YはN美との事を話し始めた。
YがN美がつき合い出したのは、ここ1ヶ月のことだった。N美は親元を離れ、一人暮らしをしていた。
Yは何回かN美の部屋に行ったらしい。つき合っている最中のN美は、明るい普通の子だった。
だから、N美の生き霊(?)の噂を聞いた時も、Yは嘘だと思って相手にしなかった。ところが先日の深夜、私と一緒のメンテの際に、Yは自分の目でN美を見てしまった。
私にはああ言ったものの、Yは店長には何も話さなかった。そして、その日の昼にN美に会って話をしたそうだ。
最初は「何言ってんの~」と笑っていたN美も、Yの真剣な表情に怯えだした。最後には2人して黙り込んでしまい、結局、気まずい雰囲気でその場は別れたらしい。
翌日の夜、Yの家にN美から電話があった。昨日の話題は出なかった。
ただ、N美はやたら昔の話をしたがった。Yとの思い出、一人暮らしを始めたきっかけ、子供の頃の記憶、両親の事・・やがて、昔付き合っていた男の話までしだしたので、鬱陶しくなったYは、半ば強引に電話を終わらせてしまった。
「その次の日なんだ、N美が姿消したの・・・」Yは昨日の夜、つまりN実が無断欠勤した日の夜に、N美の所へ電話した。しかし、N美は出ない。
アパートへ行ってみると、ドアの鍵が開いている。中へ入ると、N美の姿はなく、部屋の中が妙に整頓されていた。
イヤな予感。Yは、近くの公衆電話で、以前聞いたN美の実家の電話番号をプッシュした。
電話はすぐに繋がり、N美の母親が出た。Yは単刀直入に聞いた。
「N美さんは、そちらに戻っていますか?」しばらく沈黙があり、やがて重々しい口調で返事が返ってきた。「・・N美は死にました・・・半年前に、自分の意志で・・・」「なあ、どう思う?」Yは顔を歪めながら聞いてきた。
「俺、N美のお袋さんに、N美の事イロイロ聞いたよ。人違いかもしれないと思って。
でも、顔や体の特徴、性格、話し方、子供の頃の記憶。同じなんだ、何もかも。
俺が知ってるN美と、半年前に自殺したN美。同一人物としか思えないんだよ。
」私は呆然とするしかなかった。N美がバイトをしている姿は、私もYもKさんも、他のバイト仲間や店長も見ている。
何百人という人が、N美の手からハンバーガーを受け取っているハズだ。それが全て幻だったとでも言うのか?N美は幽霊だったのだろうか?「俺、家に帰ってからN美の写真を見たよ。
そのままだった。何も変わっていない。
俺の記憶のままのN美が写ってる。あれがN美じゃないなら・・・誰なんだ?」Yは泣いていた。
私は何と慰めて良いのかわからず、Yと一緒になって泣いた。結局、私やYが知っているN美の行方は、それっきり判らずじまいだった。
バイト先に残されていたN美の履歴書に貼り付けてあった学生証のコピー。そこにあった学籍番号は別の学生のものだった。
N美の部屋は生活の痕跡が残されたままで、預金通帳や現金もそのまま残されていた。これは、誰かが仕組んだ、手の込んだイタズラなのか?誰もがそう考え始めたころ、Yが死んだ。
見通しの良い直線道路。Yは急に歩道から飛び出し、タクシーに轢かれた。
遺書の類は残されていなかった。自殺なのか?偶然なのか?分かろうはずもなかった。
ただ、私には思いあたる節があった。気になる事がある、と言った方が良いかもしれない。
N美が消えた翌日、私の部屋へ来た時、Yが話していたことがもう一つある。Yが階段裏の倉庫でN美を見た時のこと。
Yは、目の前を通り過ぎてそのまま走り去ろうとするN美に、思わず声を掛けた。「おい!待てよ。
」N美は足を止め、ゆっくりと振り返った。次の瞬間、N美の目が驚いたように見開かれた。
そのまま、一所をじっと見つめている。Yはその視線を追い、倉庫の中に目をやった。
そして、Yは「そいつ」を見た。倉庫の奥に座っていたそうだ。
Yは、恐怖のあまり腰を抜かした。目を閉じて、ひたすら祈りの言葉を繰り返す。
やがて、「大丈夫か?!」という声がして、Yはようやく目を開けた。目の前に私の姿があった。
ホッと一安心したそうだ。で、私の肩越しに倉庫の中を見た。
薄暗闇の中、「そいつ」がゆっくりと立ち上がろうとしているのが見えた。一刻も早く、その場を離れないとヤバイと思ったそうだ。
「上へ連れてってくれ・・」だから、Yはそう言った。「そいつ」について、Yはそれ以上、何も教えてくれなかった。
私が何を聞いても返事をしなかった。怯えていたのかもしれない。
ただ、「そいつ」を見た時、Yは恐怖と共にある予感を抱いたのだという。「N美とはもう会えないかもしれない。
」Yはその時、何かを諦めたんだと思う。うまく説明出来ないけれど、きっとそうだ。
だから、Yの死因は自殺ではないと思う。