今でも、あの時のことを思い出すと寒気がする。
二十数年生きてきて、たった一度だけ体験した「シャレ怖」。上手く恐ろしさが伝わるかどうかが心配だが…どうか、自分自身に置き換えて読んでみて欲しい。
あらかじめ、長文スマン。二年程前。
大学生だった俺は、アパートで独り暮らしをしていた。その頃俺は卒論の締め切りに追われており、その日の前の晩も友人宅に泊まり込んで情報交換&ワープロ打ち、朝から大学の図書館で調べ物。
自宅アパートに帰ったのは昼前だった。帰宅した俺は、部屋着に着替えると、そのままこたつに潜り込んで横になった。
帰り際にコンビニで弁当を買ってきてはいたが、眠気が勝って食べる気がしない。俺は手探りでラジカセのリモコンを探し、入れっぱなしにしてあったCDを小音量でかけた。
曲はハードロックだったが、その時の俺には全てが子守唄に聞こえた。…ふと、息苦しさを感じて目を開ける。
どのくらい眠っただろう。CDがまだ終わっていないということは、せいぜい一時間弱か。
さっきは子守唄に聞こえた音楽が、酷く不快に感じられる。ラジカセの電源を切るため、俺は体を起こそうとした。
体が動かない。今、急に動かなくなったのではない。
目を覚ましたときから動かなかったはずだ。息苦しさを感じたのはこれが原因だろう。
だが、俺は別に焦らなかった。正直、「またか…」と思った。
俺にとってはよくある事なのだ。疲れていたり、眠りが浅かったりすると、決まってこの「金縛りもどき」にかかる。
決して霊的なものではない(と自分では思っている)。勿論、初めてかかった時は恐怖を感じたし、枕元に幽霊が立っていて、俺を見下ろしているのではないか、などと怖い想像もした。
でも実際にそんな事は一度もなかったし、闇雲に体を揺すったり大声を上げたりすれば、体は動くようになることを長年の経験で知っていた。そのまま眠ってしまおうか、とも考えた。
が、やはり気持ちのいいものではない。俺は「金縛りもどき」を解くため、体に力を込め始めた。
音が聞こえた。パッタ、パッタ、パッタ、パッタ…横たわる俺の、左にある壁の向こう。
そこにあるのは、アパートの階段だ。俺の部屋は、アパートの中央に位置する階段の真横にあった。
鉄骨造りのため、よく音の響くアパートだった。誰かが階段を上り下りすれば、その音はダイレクトに俺の部屋に響いたし、それが俺の不満でもあった。
…随分音が軽い。ビニールスリッパでも引っ掛けているような足音。
上っているのか下りているのかは、ちょっと分からない。ただ、妙に軽快に、一定のリズムで、その音は続いていた。
だがその時は、そんな音に注意を払っている場合ではなかった。なにせ、「金縛りもどき」と格闘中なのだから。
俺はまず手から自由にしようと思い、指先に全神経を集中させた。…よし、動くぞ。
次は腕全体だ。パッタ、パッタ、パッタ、パッタ…「その音」は、依然として続いていた。
そこで、俺はふと気が付いた。「………ト……イ…………ル……ョ……」…何か言ってる。
小さくて何を言っているのかは聞き取れないが、確実に何か言ってる。パッタ、パッタ、パッタ…「音」と「声」は、絶え間なく続く。
その時になってようやく俺は「気味が悪い」と感じ始めたが、様子を見に行くにも、体が動かなくてはどうしようもない。俺は目を見開き、「金縛りもどき」を解くことだけに集中しようとした。
パッタ一瞬、心臓が縮みあがった。さっきまで階段から聞こえていた足音が、突然、すぐ近くから聞こえたのだ。
パッタ、パッタ、パッタ…俺の部屋の前…?間違いない。俺の部屋の前を、あの足音が行ったり来たりしている。
そして、やはり何か言っている。何事か呟きながら、軽快に足音を鳴らしている。
さっきとは比べ物にならないほどハッキリと、「音」と「声」は俺の部屋に流れこんでくる。いつの間にかCDは終わっていた。
耳をすませば「そいつ」が何を言っているのか聞き取れそうだ。俺は「聞きたくない」と思った。
本能的にそう感じたのだ。だが、声の断片が耳に流れこんでくるにつれ、自然と意識がソレに集中してしまう。
何だ?何を言ってる?…男の声だ。歳は、俺と同じくらいか…もっと上か。
はっきりとは分からない。だが、これだけは断言できる。
子供ではない。あの声は、絶対に 子 供 の 声 で は な か っ た。
にもかかわらず、「そいつ」は抑揚のない声で、軽快に足音を鳴らしながら、こう言っていた。「…る、ち・よ・こ・れ・い・と、ぱ・い・な・つ・ぷ・る、ち・よ・こ・れ・い・と、ぱ…」子供がよくやるアレだ。
ジャンケンで勝ったら前に進める、という遊び。グリコ・チョコレート・パイナップル(地方によって違うかもしれんが)。
しかし大人が、しかも一人でどうやって?全身に鳥肌が立つのが分かった。これは、ヤバい。
ただの変なヤツなのかもしれない。でも、そうじゃなかったら…。
…玄関の鍵を、かけただろうか?その事が頭をよぎった時、瞬間的に跳ね起きていた。体はいつの間にか動くようになっていた。
ガタンッとこたつが音を立てて持ち上がる。飲みかけの缶コーヒーが倒れて、こたつ布団にこぼれたが、気にもとめなかった。
次の瞬間、立ち上がった俺の背後で、狂ったような女の笑い声が起こった。臓を素手で掴まれたような衝撃。
俺は反射的に振り返った。テレビがついていた。
よく目にする女タレントが、大口を開けてバカ笑いしている。足元を見ると、テレビのリモコンを踏んづけていた。
俺は、へなへなとその場に尻餅をつき、玄関のドアを凝視した。パタ